※今日は長文です(いつもだけど 笑)。今回は学びのシェアというよりは、僕個人の感想になります。日本に対して否定的な意見も含まれますので、気分を害する方は読まないことをおすすめします。
日本人の自己肯定感
日本は世界でも有数の自己肯定感が低い国です。日本人の中で自己肯定感が高い人はわずか9%だそうです(アメリカは約50%)。
日本人の10人中9人は自己肯定感が低いということになります。
謙遜の持つ意味
日本は謙遜の文化がありますね。自分の立場を低く言うことによって、相手の立場を上げて尊敬の意を示すことが美徳とされます。
ですから、他人に褒められるという習慣がありません。
「綺麗ですね」「頭がいいですね」「かっこいいですね」など、褒められることがあっても、「いえ、全然そんなことはありません」と否定することがテンプレート化しています。
最近になってこそ、ほめ言葉に素直に「ありがとう」と言える人が増えてきたように思いますが、ひと昔前は褒められたことに対して否定しなかったら「傲慢な奴」とか「うぬぼれている」などといわれてしまうような風潮がありました。
謙遜の裏側には「批判される恐怖」が隠れているように思えてなりません。
「私は凡人です」ということによって、周囲から嫌われる(攻撃される)ことを避けています。
もしあなたがそうだったら、一度自分に聞いてみてください。
「もし、周囲に誰もいなかったとしても自分で自分のことを凡人と言いますか?」
謙遜だろうが本心だろうが「私は凡人です」と言っていると、それが現実化します。
凡人が悪いと言っているわけではありません。ただ何か実現したい夢があるのなら、その言動が夢の実現にブレーキをかけてしまっているので、今すぐ辞めたほうがいいです。
謙遜は本来「相手に対する尊敬」であったはずですが、現代での謙遜は「相手に良く思われたい=嫌われたくない」という意図で使っているように思います。
でも謙遜をするということは、自分のことを悪く言うことになるから、自己肯定感も下がってしまいます。
自己肯定感が低いと幸せを感じることはできません。
僕たちは幸せになるために地球に生まれてきたはずです。それが大人になるにつれ、いつからか周囲の人間の視線を気にして、他人軸で生きるようになります。
他人の評価は相対的でコントロールできません。どんなに人気者でも、ある一定数のアンチはいるものです。
謙遜しても嫌われる人は嫌われます。だから僕は個人的に(良く思われたい)謙遜はする必要がないと思います。
「いい人になりたいのか幸せになりたいのか」
いい人でいることは他人から攻撃されることも少ないので、傷つかなくて済みます。ただ自分で自分を傷つけてしまっている上に、常に周囲の評価を気にした他人軸の人生です。いいひとになることはできても、苦しいと思います。
それよりも他人の評価を気にせず「自分はすばらしい人間だ」と思っているほうが、気分も楽だし、結果としてそういう幸せそうな人のほうが人から好かれたりします。
あなたの人生はあなたのためのものです。だから自分が幸せになることが大切だと思います。
日本特有の否定文化
いくつかの国に住みましたが、海外に住んでいると「日本のいいところも悪いところ」も見えてきます。
僕はカナダで日系の会社も外資系の会社もどちらも働きました。
日本の会社は社内の雰囲気がギスギスしている印象があります。
「社内メールの書き方に細かくケチをつけて新人をイビる人」「抜き打ちでお店をチェックしに来て、後でダメ出しのメールを送ってくるオーナー」などいました。
それに対し外資系の会社はどこも月間MVPの表彰をしていたり、よかったスタッフのアンケートを取ったり、褒めることが基本でした。
日本の会社の新人社員は自信がなくてオドオドしていますよね。例えば新人社員が接客をしていて、どうでもいいようなことにまで先輩が「違う違う!」とお客さんの前で、新人を注意しているシーンをよく見ます。そして新人はさらに萎縮してしまう。
それに対し海外の人はほとんど注意も否定もしません。僕も現地の観光施設でアトラクションのチケットを売る仕事をしていた時期がありますが、デビューしたての頃失敗もありましたが、上司は「Nicely done!」と言って褒めてくれました。
僕より後に入ってきたカナダ人の新人もみんな実に堂々としていました。
褒めてばかりいるとダメな人間になるのではないか、と思うかもしれません。
ですが、海外の会社は否定文化がなくても回っているし、業績もよいです。必ずしも否定をしなければ人は育たないというわけではありません。
よく考えてみてほしいのですが、否定ばかりされていると仕事にやる気がなくなりますよね。
「お客様に心を込めてサービスしなさい」と指導されても、自分の気持ちが満たされていないのなら、心の底からお客さんを喜ばせるために接することはできないように思います。
日本の会社でも社員の人が幸福感を持って働いている会社は業績がいいです。そういう会社の社員の人は心の底からお客さんの満足のために働きます。
だから厳しく指導するだけが、顧客満足につながるわけではないように思います。
日本では「赤ちゃんが泣いていると舌打ちをしたり、睨みつけたりする人」がよくいます。
カナダではスキンヘッドでヒゲボーボーの強面のおじさんも、ちいさな子供の前ではフレンドリーに接します。
でもこれは国民性の問題ではないような気がします。
日本人だからではなく、日本人の心が満たされていないことが原因のように思います。
もしカナダ人がストレスだらけで、普段からイライラしていたら同じように舌打ちしたり、睨みつけたりすると思います。
心の時代への転換期
僕たちは子供の頃からたくさん否定的な言葉をかけられて育ちます。他人と比較され、自分のダメな部分ばかりを指摘されているうちに、自己肯定感を失っていきます。
子供の頃、どんなに失敗をしても「お前はすばらしいから大丈夫」と親に言われ、大人になってから大成功したビジネスマンもいます。
テストの点が悪くても、運動ができなくても、絵がうまいかもしれない。
人を思いやる心があるかもしれない。
できないことを否定するのではなく、その子のいいところを褒めてあげるようにしてあげれば、その子はきっと幸せな大人になると思います。
子供がグレて不良になるのも、「自分を否定する親」に自分を認めてもらえなかったことに対する反抗をしているのだと思います。
僕たちが子供の頃は学校の先生によくシバかれたりしていましたが、現代の子供は先生にシバかれることはありません。
僕自身もそういう子供たちを見て「先生が鉄拳制裁すれば黙るのになあ」と思ったこともあります。
でもそもそもグレる子供がいなければ、鉄拳制裁する必要もないわけです。
カナダも不良がいないわけではありませんが、日本より圧倒的に数が少ないです。
日本はどこの中学校にも必ず一定数タバコ吸ってるような生徒がいますよね。
僕たちの両親の頃は「競争の時代」でした。会社も学校も今よりスパルタで厳しかったと思います。
そしてその親の世代が自分がされたのと同じように子供世代(僕たち世代)に厳しくする。そうすることで子供がグレたり、自信を喪失してしまったりしています。
先生が子供に鉄拳制裁をできなくなったり、会社でパワハラが問題視されるようになったのは、直接はマスコミの影響だと思います。
でもそれは実は世の中の流れで、「競争の時代」から「心の時代」に移ってきたのだという意味だと思います。僕らの親の世代は僕たち以上にそういう仕打ちを受けていたでしょうし。
競争をしながら厳しさを経験することで経済発展してきた日本人の心が限界に達してしまった結果、これからは「心の幸せ」へと向かっていく、という時代の流れが見えるような気がします。
僕たちの子供が大人になるころには、もっと厳しい経済状況が待っています。だから物質的な豊かさではなく、心の豊かさを求める方向へと向かっているということは必然の流れです。
今、たくさんの人たちが「心の豊かさ」のために、ワクワクできることを探したり、天職を見つけようとしたりしているのは、そういう時代の転換期にいる、ということだと思います。
今日は以上です。
最後まで読んでいただきありがとうございます。