海外に住んでいると、日常的に様々な国の人々と接することがあります。
公園やショッピングモールにいくと、英語以外の言語が聞こえてくることは日常茶飯事です。
人それぞれ異なるバックグラウンドを持っていて、多様性が当たり前の光景になっています。
そういう環境に長い時間いると、自分と他人の間にある壁みたいなものが徐々になくなっていく感覚になります。
そして、あるときふとこう思うのです。
結局自分もその人(他国の人)も同じ人間なのだと。
多様性が日本を救う
日本でもようやく国際化が進められ、海外から多くの外国人が日本に移住するようになりました。
そして、海外の国々とビジネスをするのが当たり前の時代になりました。
僕はこの「国際化」こそが、日本を救うキーワードになるのではないかと考えています。
それは経済的な側面だけではなく、人々の心の豊かさにおいてもです。
日本人の心が疲弊し、心の余裕がなくなってしまったのは、
今までことごとくこの「多様性」を否定・拒否しつづけてきたからです。
時代の必然の流れ
国際化社会が進むということは、多様性が進むということです。
様々なバックグラウンドを持つ人たちが同じ環境で働くことになると、必然的に多様性が生まれることになります。
昼休憩中にシエスタ(昼寝)するのが文化の国の人もいれば、
1日に5回お祈りをしないといけない人たちもいます。
服装だって宗教的に頭にスカーフを巻かないといけない女性もいます。
そういうものをいちいち否定していたら、社会が成り立たなくなります。
今まで単一民族で同じ価値観を共有してきた日本にこの多様性がやってきたのは、
歴史の必然の流れであるように思えます。
この「同じ価値観を共有」という生き方が限界を迎えてきたからです。
共有というマイルドな表現を使いましたが、「強要」と表現するのが正しいかもしれません。
この「同じ価値観の強要」こそが、日本人の心を疲弊させた犯人の一人です。
文明が発達しきっていなかった頃は、人々は物質的豊かさを求めて生きてきました。
当時、心の問題は二の次だったのです。
とにかく物質的に豊かになることが最優先だったからです。
しかし、テクノロジーが成熟しきった現代では、これ以上の物質的豊かさは必要なくなりました。
そうすると、人類は心の豊かさを求めるようになります。
今と昔を比較したとき、教育現場や職場環境は昔のほうが何倍も厳しかったはずです。
スパルタ教育や今でいうブラック企業など当たり前にありました。
当時と比べるとそういった環境は改善されているにもかかわらず、
それらが問題視されるのは時代の流れが変わったからです。
つまり、物質的豊かさから心の豊さを求める時代になったということです。
同じ価値観の強要が生んだ悲劇
日本は島国で単一民族です。
江戸時代には鎖国していた時期もあります。
国際的に見ても、特に多様性への適応力が低い国であることは言うまでもありません。
異なる価値観が存在しない環境は、「同じ価値観の強要」を生むこととなってしまいます。
「○○は~でなければならない」
といったような考え方です。
日本人はこの「同じ価値観の共有」があったからこそ、秩序が保たれてきました。
価値観が異なる人が好き勝手やったら、秩序が保てなくなります。
日本人が世界の人から尊敬されるのもそういった背景があるからでしょう。
しかし一方で、この価値観の強要によって日本人は心の余裕を失いました。
「○○すべきだ」
「~しなければならない」
という生き方はとても苦しいですよね。
僕たちの時代で言うならば、「良い大学に入って一流企業に就職しなければならない」という暗黙の価値観を強要されていたように思います。
そこから逸脱したものは社会から白い目で見られる(と思っていた)。
だから「一流企業に就職しなければならない」と必死になり、心の余裕がなくなっていくのです。
日本にはそういう無意識のうちに強要された価値観がたくさんあります。
そうして、人々は心の余裕を失い、精神的豊かさを求める「心の時代」に向かっていきました。
多様性とは答えが無数にあること
日本人をこの危機的状況から救い出してくれるのが「多様性」です。
そして、その多様性をもたらしてくれるのが「国際化」です。
多様性というのは「答えが無数にある」ということです。
おおざっぱな言い方をすると「なんでもあり」ということです。
海外の職場では、実にたくさんの国の人が一つの職場で働いていますが、
そのお互いの文化や生活習慣を否定することはありません。
日本人のように「日本だったらありえない」という発言をする人もいません。
それは多様性が当たり前になっているからです。
その根底には「他人と違うのは当たり前」、「他人と違うこと=悪ではない」という考えがあります。
だから、他人との違いをいちいち否定することがないということです。
多様性とは、「Aという考えを持った人も、Bという考えを持った人もみんな正解である」という生き方です。
日本に多様性が根付いたとき、人々は心の余裕を取り戻すはずです。
「人と違っていい」という考えを持つということは、「自由に生きることができる」とうことだからです。
もちろん、自由には責任も伴いますが、他人や社会からとやかくいわれる心配がなくなるというのは、心にとっても健康的であることは間違いないでしょう。
多様性と芸術
今は、個人が自分を表現することができるような時代になりました。
しかも、その自己表現をお金に変えることもできるすばらしい時代です。
僕は「自分を表現すること=芸術」だと考えています。
芸術って必ずしも絵画や美術品だけではないと思います。
あなたが表現するものは、あなたにしか表現できません。
つまり、他の人が真似できないということです。
誰一人あなたと同じものを表現できないのであれば、
それは芸術と呼んでもいいのではないでしょうか?
そして、芸術には答えがありません。
何が良くて何が良くないのかの判断は受け取り手に委ねられています。
音楽アーティストの曲を聴いて、「良い」と思う人もいれば「良くない」と思う人もいますよね。
それと同じで、絶対的な答えはないし勝ち負けもありません。
地球上に存在するすべての人間は、ひとりひとり違う存在です。
だから、普通に自分らしさを表現していれば必然的に多様性が生まれ、
その多様性こそが芸術になるということです。
分離と融合
以前にこういう記事を書きました。
この記事を読んだ人は、「この間分離から融合に向かうって言ってたじゃないか。多様性ってことは分離だろ。言ってることが矛盾してるじゃねーか」と思ったかもしれません。
そういう人のために説明を補足しておきます。
「分離」とは「俺とお前は違う」というあり方のことです。
他人を否定し、「自分こそが正義である」と考えることが分離です。
多様性というのは、「私とあなたは違う」という部分は共通していますが、
他者を否定することはありません。
「私の生き方も素晴らしいけど、あなたの生き方も素晴らしいよね」
とそれぞれの違いを認めることが多様性です。
相手を認めるということは、相手とつながるということです。
融合とは相手と一緒になること、分離とは相手を(否定して)寄せ付けないことです。
だから、分離から融合に向かっているということが言えるのです。
最後まで読んでいただきありがとうございます。