僕たちは普段「○○さえあれば幸せになれる」と思って生きています。
○○に入る言葉は人によって様々です。
お金の人もいれば、理想のパートナーという人もいるでしょう。
しかし、実はこの「○○さえあれば幸せになれる」という考えはただの幻想にすぎません。
実際にそれを手にすることができても、幸せになることはありません。
正確に言うと、それを手に入れたときは一時的に幸福感を感じますが、その幸福感は長続きしないということです。
その理由は「幸せとは物質や出来事がもたらすもの」だと思っているからです。
真実をお伝えすると、幸せとは外的要因がもたらすものではなく、自分の在り方がもたらすものです。
どんな状況にいたとしても、自分の在り方さえ整っていればいくらでも幸福感を感じることはできます。
そして、この「○○さえあれば幸せになれる」というまやかしは現状の否定を助長します。
この気持ちが強ければ強いほど、「今の自分はダメだ」という現状否定も強められていくということです。
幸せになるための訓練
幸せになりたければ、幸せになるための訓練をしなければなりません。
それはすなわち「自分の在り方を整える」ということです。
仮にあなたが1億円ほしいと思っていて、実際それを手にすることができても本当の幸せを感じることはできないでしょう。
なぜなら、不足感にフォーカスを当てる思考パターンが変わっていないからです。
1億円手に入れたらまた別のことに不満を感じるようになって、自分にない物を追い求めるようになります。
これでは物質的にどれだけ満たされても、永遠に幸せになることはできません。
人間とは慣れる生き物
人間とは慣れる生き物です。
一時的に幸福感を感じてもそれが持続しないのは、「満たされた状態に慣れる」からです。
どんなに美人の奥さんと結婚しても、3年も経てば飽きてしまいますよね。
結婚当初はラブラブだったのに、年月とともに相手に感謝も愛情も感じなくなります。
スマホなんて、僕たちの子供の頃から考えると夢のような存在です。
今の時代、スマホ一台あれば何でもできるといっても過言ではない魔法の機械です。
しかし、スマホが当たり前になった現在では、その存在に心を動かされる人はほとんどいません。
今時スマホに感動している人を見たことがありませんよね。
これらはすべて「人間とは慣れる生き物」だから起こる現象です。
だからこそ、物質的価値に幸せを見出すことは意味がなく、幸せになるための訓練が必要になるのです。
人類が発展した理由
人間の「慣れる」という特性に抗うことはできません。
この機能は人類が発展するのに必要不可欠なプログラムだからです。
もし人間に「慣れる」という機能が存在しなければ、
物質的価値を手にしたときの満足感は持続するでしょう。
しかし、現状に満足しているが故にそれ以上求めることをしなくなります。
要するに「もっとよくなりたい」と思わなくなるということです。
この「もっとよくなりたい」という本能が、人類をここまで発展させてきました。
この本能を感じ続けるためには、幸福感・満足感はむしろ足枷になります。
だからこそ、「慣れる」という機能が人間には備わっているのだと考えています。
天に愛される人になる方法
人間は慣れる生き物なのだから、幸せになるためには「喜ぶ努力」が必要になります。
「喜ぶ努力」ができた人は、天から愛され幸運が巡ってくるようになります。
(天という言葉に抵抗がある人は、神様とか宇宙という言葉に置き換えてもいいです)
これを現実レベルで考えてみます。
いろいろやってあげたのに全然感謝してくれない人と、
感謝してくれるだけでなく心から喜んでくれる人がいた場合、
あなたはどちらの味方をしたいと思いますか?
後者の人には「もっとやってあげたい」と思うはずです。
それに対して、前者の人には「どうせ感謝もしてくれないから、もうやってあげなくてもいいかな」と思うに違いありません。
これは人間も天も同じだと思います。
せっかく恵みを与えたのに、感謝もしないし喜ばない(むしろ不平不満を言う)のであれば、もうその人に幸運を与えようとは思いません。
もし自分の人生がうまくいかないのであれば、
それは喜ぶ努力をしていないからです。
努力をする気がないのだから、その報いがないのは当たり前です。
喜ぶという行為は喜んでいる当事者だけでなく、喜んでもらった側の人間まで幸せな気分になります。
つまり、喜ぶ努力をするということは、周りの人間を幸せな気分にする尊い行いであるということです。
見ようと思ったものしか見えない
人間は自分が見ようと思ったものしか見えません。
これはRASの働きによるものです。
「部屋の中にある赤い物を見てください」と言われると、今まで見えていなかった赤い物が急に目に付くようになります。
これをカラーバス効果と言います。
逆に「部屋の中にある赤い物を見てください」と言われた状態で、
「さて、時計の針は何時何分を指していたでしょう?」と聞かれても答えることができません。
これは、時計は視界に入っているのに見えていないことが原因です。
つまり、「見ている」のと「見えている」のは違うということです。
「自分は幸せじゃない」と思うのは、幸せがないからではなく見えていないだけです。
幸せは自分のすぐ近くにいくらでもあるんです。
でも見ようとしていないから見えないだけです。
「自分には価値がない」と思うのは、価値がないからではなく見えていないだけです。
他人の断片(良いところ)だけを切り取って自分と比較して劣等感を感じる。
だから、自分の良いところが見えなくなってしまうんです。
ご飯を食べるだけでも、あったかい布団で寝るだけでも幸せを感じることはできます。
「真面目、優しい、気遣いができる、忍耐力がある」、など自分のいいところはいくらでも見つかります。
しかし、僕たちは不足感ばかりに焦点を当てているから、これらのことが見えなくなってしまったんです。
「ない」のではなくて、「見ようとしていない」だけです。
「ない」と思っているものが見えるようになるためには努力が必要です。
それが「喜ぶ努力」です。
天は喜ぶ努力をしている人をちゃんと見てくれています。
そして、その努力ができた人には幸運というご褒美をプレゼントしてくれます。
最後まで読んでいただきありがとうございます。