潜在意識と引き寄せの法則でどん底から人生逆転

カナダで失業、生活保護、人生どん底からの逆転。

平等と公平



今は違うかもしれませんが、結構前に「日本では運動会の徒競走で手をつないでゴールする」とか、「幼稚園の劇で全員が主役を演じる」というようなことを聞いたことがあります。

 

今日は平等と公平の定義、そしてその裏に潜む危険性についてブログを書いていきたいと思います。

今日もちょっとエッジが効いた内容です。ためになる記事ではありませんが、読んでもらえるとうれしいです。

 

平等と公平の定義

平等と公平は一見すると同じ概念ではないかと思えます。しかし、この2つは似て非なるものです。英語で考えてみると言葉の定義がわかりやすいです。

 

平等はEqualで、公平はFairです

Fairの方に関しては説明不要だと思います。Equalとは平等と表現することもできますが、その主意は「同一」です。

 

冒頭の運動会や演劇での一連の出来事というのは、おそらく「公平」を尊重した上での措置であると思います。

 

確かに公平であると捉えることもできますが、僕個人としては、どちらかというとEqual(平等)に近い印象をうけます(あえてEqualと表記したのは、平等という表現だと公平との違いが伝わりにくいためです)。

 

平等化を進める背景には「競争しない=差をつけない」という意図があります。

しかし、僕はこの考え方はどうなのかなと思う部分があります。

 

 

価値を固定化しない

 

日本では「出る杭は打たれる」ということわざがあるように、周囲の人間と足並みをそろえることが善とされています。

 

競争をしないという考え方はある点においては素晴らしい考え方だと思いますが、競争をしないことが公平性を保つというわけではありません。

 

運動会で手をつないでゴールするということは、護送船団方式と同じ考え方です。

つまり一番ビリの子を基準に考えているということが言えます。

ビリの子はみじめな思いをしないからいいです。でも走る才能にあふれている子の価値をつぶしていることに気づいていません。

 

人それぞれ個性があります。勉強ができる子もいれば、スポーツが万能な子もいる。おっとりした子もいれば、活発な子もいます。

 

大切なのは競争をしないことではなく、特定の価値で人を評価しないことです。

つまりそれは人間の価値を公平に判断するということです。

 

「勉強できることだけが善」、「早く走ることだけが善」のように特定の価値にだけ重きを置くから、競争しないことが正しいという考え方が生まれるんです。

そうではなくて「足が遅くても、勉強ができなくても、あなたには優しさがある」とか、特定の価値基準だけで人の良しあしを判断しないようにすることの方が大切です。

 

争わないことを教えるのではなく、人間の価値は一つだけではないということを教えることこそが、本来我々大人が伝えるべきことだと思うのです。

 

出る杭はますます打たれる

走ることが早い子はそれがその子の個性です。人よりも秀でていることは自己重要感を満たします。

しかし、それが社会によって強制的につぶされてしまったとしたら、その子の心の拠り所はどうなるのでしょうか?

「僕は勉強が苦手だけど、足には自信がある」と思うから、勉強という特定の価値基準において評価されなくても、自己重要感が損なわれることがないのです。

 

でももしその子の早く走る才能を社会がつぶしてしまったら、勉強ができず落ちこぼれという評価をされた時に、その子は無価値感を感じると思います。

 

大人になったら競争を避けることはできません。景気が厳しくなればなるほど、実力を発揮できない人間は淘汰されていきます。

そんな環境に争わない環境で育ってきた人が入ったとしたらどうなるでしょうか?

 

今までは社会や周囲の大人が守ってくれていた。だからこそ、落ちこぼれることもなかったわけですが、いつまでも社会が競争を排除してくれるわけではありません。

自転車に補助輪を付けたままでは自転車に乗れるようにはなりません。でも大人になっても補助輪をつけたままでいるわけにはいかないですよね。

 

転ぶこと(=競争に負けること)を極度に恐れるがあまり、補助輪(周囲の助け)がなくては生きていくことができなくなってしまいます。

 

そして競争が悪であるという考えがますます助長されると、何か特定の物事において他人よりも秀でた人間はますます攻撃されるようになります。

 

魚は泳ぐのがうまい、鳥は空を飛べる。しかし今の日本はその価値を尊重せず、彼らを無理やり陸に上げて地上動物と同じ目線で価値を決めようとしているように思えてなりません。

 

自己肯定感の低さと幸せの尺度

以前にこのブログでも日本人の自己肯定感の低さについて記事を書いたことがあります。

 

www.theloablog.com

 

日本人で自己肯定感が高い人は全体のわずか10%です。つまり10人中9人は自己肯定感が低いということです。

 

徒競走の例で挙げたように、自分の個性を潰されてしまうと、周囲の人間から認めてもらえない出来事があったときの心の拠り所がなくなり、自分に対して無価値感を感じるようになります。

 

「よい大学に入って、大手企業に就職する」、そのことだけが絶対正義になっているから、そこから逸脱した人間は評価してもらえず、自己肯定感が下がっていきます。

 

世の中にはお金よりも自由に価値を置いている人もいます。

そういう視点で考えるならば、人によっては大手企業のサラリーマンよりもホームレスのほうが幸せだと考えることもあるのです。

 

でも社会の絶対的な物差しでしか物事を判断しないから、そういう人々がますます生きづらい社会になってしまうような気がします。

 

日本人は気づかいができる素晴らしい人々であると、世界中の人から言われます。

しかし、一方で必要以上に自分よりも他人を尊重しすぎるあまり、人々の幸福度が下がっているような気がします。

他人のレールで生きているから、幸せを感じられないのは当たり前です。他人はコントロールできませんからね。

 

今の日本人は観念でガチガチに縛られているような状態です。

個人の幸福よりも社会の秩序を優先しすぎた結果が招いた結末だと思います。

 

正しく生きることよりも幸せに生きることこそが、人間が生まれてきた本来の意味であるということに気づく日が来るのを願ってやみません。

 

今日は以上です。

 

いつもブログを読んでくださりありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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