僕は昔から不思議に思っていることがありました。
それは、「経済的に豊かな日本人よりも、貧しい国の人々のほうが生きる活気を感じる」ということでした。
言い換えると、日本人は人生に疲れている人が多く、発展途上の国の人たちは毎日を精一杯生きようとする姿勢がみられるということです。
日本人は世界的に見ると裕福な国に入ると思います。にもかかわらず、自殺率が高い国でもあります。
一方で発展途上の国では、貧しさで命を落とす人はいたとしても、自ら命を絶とうとする人は日本と比べると極端に低いように思えます。
これはつまり、「経済的豊かさは必ずしも幸せに直結しない」と言うことだと思います。
人間から幸せを遠ざけるものの正体
実はこの「経済的豊かさ」が我々を幸せから遠ざけるものの正体です。
「経済的豊かさ」とは「文明の発達」と表現することもできます。
経済的豊かさが幸せを遠ざけるというのは逆説的に聞こえるので、補足説明をする必要があります。
ここでいう経済的豊かさとは一部の大富豪が持っているような豊かさではありません。
我々庶民が持っているレベルの経済的豊かさです。
50~100年前と比べれば、今僕たちが生きている現代社会はものすごく便利になりました。
- お米を自分で炊く必要がない
- 洗濯を自分でしなくていい
- 冷蔵庫をあければ好きな時に食べたり、飲んだりできる
- 携帯電話があればいつでもどこでも電話できる
- インターネットを使えば簡単に情報を調べられるし、買い物もできる
など不便だった当時と比べると、今の我々はとても豊かさな生活をしているということができます。
この「現代社会の一般人が持つレベルの経済的豊かさ」こそが、我々から幸せを遠ざけてしまったものの正体です。
先ほど「経済的豊かさ=文明の発達」と表現したのはこのためです。
人々の心を貧しくした「文明の発達」
「文明の発達は人々の心を貧しくした」という言葉を一度は聞いたことがあると思います。
この言葉の意味は「文明が発達することによって、他人とのコミュニケーションが希薄になり、他人を思いやることができなくなる」という意味で理解されています。
僕も最初はそう思っていたし、この言葉を考えた人もそのつもりで言ったのかもしれません。
でも今の僕の解釈は違います。
「文明の発達によって、僕たちの当たり前のハードルがどんどん高くなっているから、人々の心が貧しくなった(幸せでなくなった)」のではないかと考えています。
「心が貧しい」の対義語は「心が豊か」です。
僕たちは心が豊かなときに幸せを感じます。
つまり、心が貧しいというのは幸せの正反対にいる状態を意味していると言えます。
例えば先ほどの例で考えてみます。
昔の人はお米を自分で窯で炊いていました。火事になってはいけないので、常に窯の前で火力を調整する必要がありました。
洗濯機がない時代は、近くの川までいって1枚1枚手洗いをしていました。
それが今ではボタン一つで全部できる時代になりました。
つまり、炊飯器や洗濯機を使うのが当たり前の時代になったということです。
今の時代、炊飯器や洗濯機に便利さや豊かさを感じている人はほとんどいないでしょう。
気がついたら携帯電話やスマホが普及していましたが、僕たちが子供のころから考えると想像できないぐらい便利になってきています。
でも今、携帯電話にありがたみを感じている人は少ないと思います。
文明の発達がもたらしたもの
食料が満足になかった時代、おいしいお米を食べられるだけで幸せを感じていたはずです。
おいしいおかずが1品でもあれば、喜びもひとしおだったに違いありません。
そういう時代の人たちが、今僕たちが当たり前に食べている食事を食べたら、「なんて豪華な食事をしているんだ」と思うのではないかと思います。
食料が満足になかった時代の人の幸せは「おいしいご飯を腹いっぱいたべること」です。
お金とか人間関係とかよりもまずは「ご飯を食べること」です。
やがて文明が発達し、おいしいご飯を好きなだけ食べられるのが当たり前の時代になりました。
そうすると何が起こったか?
幸せを感じる基準があがったんです。
ご飯を食べるだけでは満足しなくなったということです。
川で洗濯をしていた人が初めて洗濯機を使ったときは感動したはずです。
しかし、いつしかそれが当たり前になってくると、洗濯機を使うことに満足感を感じることができなくなります。
「音がうるさい」とか「大きすぎて場所をとる」とか、今度は不満を感じるようになります。
それがさらなる文明の進歩を生み、我々の幸せのハードルをどんどん上げていきます。
当たり前のレベルが上がっていくと、僕たちはどんどん上を欲するようになります。
すでに豊かさは持っているはずなのに、モノだけではもはや幸せを感じることができなくなるぐらい感覚がマヒしています。
そして「価値」や「豊かさ」といったものが何なのかがわからなくなり、行きついた先が「お金」です。
もはや豊かさに慣れすぎてしまった現代人は、さらなる幸せを求めて「お金」に価値を置くようになりました。
今現在の生活で、モノで不便を感じている人はいますか?
だいたいのことは今現在存在しているモノで解決できるはずです。
モノのクオリティがあがることはあっても、モノがないことで不便を感じる問題というのはほぼ存在しないように思います。
これが幸せのハードルが上がりきってしまった状態です。
もはや求めるモノがなくなった現代人は、「お金」こそ幸せだと思うようになってしまったのです。
幸せとは自分の外側には存在しない
人によって何に幸せを感じるかということは違います。
つまり、モノや出来事そのものには絶対的な幸せの価値基準は存在しないということです。
言い換えるなら、幸せとは外側の世界ではなく自分自身の内側に存在するということです。
外側の物質世界で「もっともっと」と求め続けている限り、いつまでたっても幸せになることはできません。
幸せというのは自分の内側に存在するのだから、自分自身に聞いてみればいいだけです。
好きなことに没頭しているときは幸せを感じますよね。
それは、外側の世界で物質的に満たされているから、幸せを感じているわけではありません。
多くの人は自己対話をしません。
だから自分が本当は何に対して幸せを感じるかがわからず、外側の世界に存在するものに価値を置き、大抵の場合世間一般の価値観に流されてしまうのです。
何もせずぼーっとする時間があるだけでも幸せを感じる人もいます。
ただ、自己対話ができていないと、そういう瞬間が訪れても幸せセンサーが働かないのです。
未来の子供たちに伝えること
僕の息子もまだ小さいですが、ある意味とてもかわいそうな時代に生まれてしまったなあと感じることがあります。
生まれたときからスマホが当たり前に存在する時代です。
この世代の子供が大人になるころは、もうちょっとやそっとのことじゃ満足できなくなっているはずです。
極限まで幸せのハードルが上がりきってしまい、もはや幸せを感じさせてくれるものなど存在しない時代になっているかもしれません。
当たり前ですがハードルがあがればあがるほど、それを手に入れるのは難しくなります。
つまりほんの一握りの人間以外は、幸せを感じることができない人だらけになってしまうということです。
でもそれは物質世界に絶対的な価値を置いているからです。
学校では「幸せとは何か?」ということは教えてくれません。
「幸せとは自分自身の中に存在するんだよ」ということを、親の立場である自分たちが子供に教えていかないと、彼らの未来は便利な物に囲まれているけど幸福度が極めて低い世界になっているかもしれません。
今とても恵まれていない環境にいるかもしれません。
でもそれは他の人よりも幸せを感じることができるということでもあります。
発展途上国では水でシャワーを浴びることも結構あります。
そう考えると毎日あったかいシャワーを浴びれるだけでも、相当幸せなことであるときづくはずです。
だから、マイナスな出来事や恵まれていない環境というのは、必ずしも悪いことではないと思います。
幸せとは「自分がどう感じるか」だけです。
最後まで読んでいただきありがとうございます。