物質世界における幸せの要素の一つに「自由」というものがあります。
人々がお金を渇望するのも結局自由が欲しいからに他なりません。
お金が手に入れば働かなくていい(自由の身になる)し、住む場所も欲しいものもすべて自分の自由に決めることができます。
その手段として「お金が欲しい」と思っているだけです。
自由というのは制限とセットになって初めて価値が生まれます。
制限があるからこそ、「自由になりたい」と思うようになるわけです。
人生はゲーム
「人生はゲームである」というと反感を買うかもしれませんが、この言葉は斎藤一人さんの受け売りです。
「ゲームやってるときは無我夢中になって楽しむよな。真面目にゲームやってますという人はいない。人生も同じで一生懸命楽しめばいいんだよ」
うろ覚えなので実際のセリフとはだいぶ違うかもしれませんが、だいたいこんな感じのことをおっしゃってました。
ここから先は僕の考えを述べます。
真面目に生きるのは確かに素晴らしいことですが、
度を過ぎた真面目さは人生を生きづらいものにしてしまいます。
僕たちは「人生とは真面目に生きるものであって、ゲームのように楽しむなんて不謹慎だ」と無意識に思い込んでいます。
でも「人生をゲームのように楽しんではいけない」という決まりはありません。
それはただの思い込みです。
「人間は幸せになるために生まれてきたのだ」というわりには、人生に楽しさを求めることに罪悪感を感じている人が大半です。
制限があるから面白い
ゲームにしてもスポーツにしても制限があるから面白いんです。
もしスポーツにルールが存在しなかったら、何でもありになってしまいます。
サッカーにルールがなかったらボールを手で触ることができるし、反則もないからやりたい放題です。
そんなサッカー面白くないですよね。
ゲームの場合でも、最初からレベル99で最強装備だったら、そんなゲームは退屈で仕方ないと思います。
何でも思い通りになったら、楽ではあるけれどもつまらないということです。
ゲームを真面目にやるとつまらなくなる
ここでいう「真面目」とは「一生懸命」とは違うニュアンスになるので、それを踏まえたうえで聞いていただければと思います。
もしゲームを真面目にやるようになったら、一気に楽しさが半減します。
真面目にやるとは義務感でやるということです。
義務感でやるということは、いわゆるノルマがあるような状態です。
「今日中にレベルを50まで上げないといけない」
といったようなノルマがあった場合、楽しかったゲームが義務に変わります。
それでも楽しむことは可能ですが、ゲームの目的が楽しむことからノルマを果たすことに変わってしまいます。
つまり、せっかくの楽しいゲームを真面目にやることによって、そこにいくばくかの苦しさが生まれることになるということです。
ノルマがきつければ、さすがのゲーム好きでも嫌になるでしょう。
制限のある世界
僕たちはもともと非物質世界に存在していた魂で、自らの意志でこの物質世界に人間として生まれてきました。
魂の存在している精神世界というのはいっさいの制限がありません。
完璧な自由というのは、ルールのないスポーツと一緒で楽しくありません。
だから、制限のある物質世界である地球に、楽しむためにやってきたというわけです。
でも人間として生きているうちに、楽しむことよりも真面目になることに重要性を感じるようになってしまったのです。
煩わしい人間関係も、ゲーム感覚で「どうクリアしてやろうか」ぐらいに考えればいいのに、真面目になりすぎてしまうからそこに苦痛を感じてしまうようになります。
「お金がない」という制限も、知恵を絞って解決する一種のゲームのようなものです。
なかなかそんな風に考えるのは難しいかもしれませんが、
物事に向き合う姿勢を変えるだけで、肩の力が抜けてだいぶ楽になるはずです。
別に失敗したって死ぬわけではありません。
いや、もし万が一失敗が命に直結するとしても、人間どうせいつか死ぬんだから早いか遅いかだけの違いしかありません。
退屈な自由の世界に制限が生まれたのは、僕たちを楽しませるためです。
宇宙は人間を楽しませようとしてこの世界を作ったのに、僕たちがつまらなそうにしていたら、それ以上楽しませようとは思わなくなります。
逆にこの世界を精一杯楽しんでいる人がいたら、もっと喜ばせるためにギフトをくれます。
一度きりの人生、楽しんだもん勝ちです。
最後まで読んでいただきありがとうございます。