日本では忘年会に出席すべきかどうかで議論が白熱しているようです。
他の方のブログを読んでいると、「忘年会に出席したくない」という人もちらほらいます。
僕個人の意見ですが、社員は会社の奴隷ではないので嫌なら参加しなくてもいいと思います。
給料が発生しないのであれば、会社に社員を拘束する権利はありません。
行きたい人は行けばいいし、行きたくない人は行かなければいい。
「どっちが自分にとって心地よいか」で決めることが大切だと思います。
なぜ今忘年会問題が取り上げられているのか?
なぜ忘年会問題が今頃注目されるようになったのでしょうか?
昔から忘年会に参加しない人は少なからずいたはずです。
にもかかわらず、今になって問題視されるということは、
それだけ不参加の人数が増えてきたということだと思います。
「行きたくないから参加しない」
それだけ自分軸を大切にする人が増えたということでしょう。
素晴らしいことだと思います。
僕はいわゆる忘年会というものを経験したことがありませんが、
想像するに「有無を言わさず強制的に参加」というのが一昔前の常識だったのかもしれませんね。
忘年会スルーがニュースになること自体が異常
「忘年会スルー」がニュースになるというのはどういうことかわかりますか?
当たり前のことはニュースになりませんよね?
ということは「忘年会スルーはありえない」と考えている人が多いということです。
会社の行事に参加しないなんて普通のことです。
ニュースにするほどのことでもありません。
それが全国規模のニュースになること自体そもそもおかしいわけです。
特に「行きたくないなら参加しないのが普通でしょ」と思っている人ならなおさらです。
忘年会スルーを問題視するという風潮は、
「自分軸で生きる」ことを許容しない世相を反映しているように思えます。
「会社の行事なのだから参加するのは当たり前だ」
これすなわち、「自分よりも会社を優先すべき」という考え方の現れと言えます。
そして、このように考えている人が多いから問題視されているわけです。
せっかく自分軸で生きようとしている人が増えてきたのに、
その生き方を「許さん」として阻止しようとする、前時代的な風潮が根付いているということです。
自分を大切にしないと自分に嫌われる
「忘年会に行きたくない」という人のブログを読むと、
「参加しなかったら他の人に嫌われるかもしれないから、仕方なく忘年会に行く」
という声もあります。
これは完全に他人軸的な考え方ですね。
(それがいいとか悪いとかそういう話ではありません)
自分の心の声よりも他人を優先しています。
自分の気持ちよりも「他人からどう思われるか」を重要視しているということです。
その根底には「他人から嫌われたくない=傷つきたくない」という恐怖があります。
その恐怖を避けるために、「参加したくない」という自分を殺すのです。
心の中には、「行きたくない」と「行かなければならない」という2人の自分が存在します。
必ずどちらかを選ばなければならず、
選ばれなかった方を殺さなければなりません。
他人軸で生きている人は、常に「自分の心の声」を殺す選択をします。
「したい」「したくない」よりも、
「すべき」「ねばならない」を優先しているということです。
しかし他人軸で生き続ける限り、常に苦しい状態から抜け出すことはできません。
いつも「他人に嫌われたらどうしよう」という恐怖に支配されることになるからです。
自分を傷つけたくないから他人軸を選んだのに、
その決断が結果的に自分を苦しめることになっています。
他人軸で生きているとき、心に余裕を持つことができません。
そのまま放置しているとどんどん心が疲弊していきます。
自分が満たされていないと親切にすることができなくなります。
自分を大切にするのは他人のためでもあります。
そもそも忘年会をやる意味があるのか?
これだけ多くの人が「行きたくない」と思っている行事を、
時間とお金をかけてまでやる必要性が果たしてあるのだろうかと疑問に感じます。
会社の行事としてではなく、
やりたい人だけでやる形にしたほうがお互いの為だと思います。
社員同士の団結力を高めるための決起集会的役割もあるはずなのに、
「参加すべきかどうか」を議論して人間関係がギクシャクするという、
なんとも本末転倒な事態になってしまっています。
まとめ
この一連のニュースは、自分軸で生きる人が増えてきたという時代の流れを象徴しているのだと思います。
そして、ここまで問題視されることに違和感を感じせざるを得ません。
日本人は良くも悪くも周囲とのつながりを大切にします。
そして、「輪を乱すものは許さん」という風潮がいまだに残っています。
その風潮こそが人々から心の余裕を奪ってしまう原因のひとつです。
他人軸で生きることは楽かもしれませんが、
それが必ずしも幸せにつながるわけではありません。
「自分は他人に合わせるために生きているのか?」
その問いに向き合うことができる時代がようやく訪れたような気がします。
最後まで読んでいただきありがとうございます。