潜在意識と引き寄せの法則でどん底から人生逆転

カナダで失業、生活保護、人生どん底からの逆転。

どうしても伝えたいこと(特に子供のいる人には読んでほしい)

今日のブログは長文です。

気分を害するかもしれませんが、どうしても伝えたいことなので、最後まで読んでもらえると嬉しいです。

 

自己肯定感の低い原因

 

自己肯定感が低いと幸福感も感じにくくなります。そして自己肯定感が低いということはセルフイメージが低いということです。

なぜ自己肯定感が低くなるかと言えば、他人から否定をされるからです。

他人から否定されると自分で自分を否定するようになります。

 

なぜ自己肯定感が低いのかと考えてみた

 

日本ではお店などで親が小さい子供を叱りつけて(時には怒鳴りつけて)いる光景を目にしますね。

でもカナダではそういう光景は全く見ません。日本と同じように子供がいたずらをしたり、言うことを聞かなかったりするのに、です。

「それはなぜなんだろうか」とふと気になりました。

 

小さな子供にとってもっとも影響力のある人物である親に叱られるということは、子供にとっては大きなショックです。

子供のためを思うがゆえの親心がそうさせるのですが、子供にとっては「愛されていない」と感じる瞬間であり、自分のことを否定されていると感じることになってしまいます。

子供のうちからたくさん「NO(ダメ)」を聞かされれば聞かされるほど、自分を否定するようになっていきます。子供はピュアですから、染まるのも早いです。そして自己肯定感の低い大人に成長していきます

 

親がたくさんの「NO」を出す理由、それは「ルールが多すぎる」からです。

 

例えばお店で子供が走り回っている場合に親が怒るとします。

なぜ怒るかと言えば、「お店は走ってはいけない」ものだと考えているからです。

そしてなぜ「お店は走ってはいけない」のかと言えば、それが常識(=ルール)だからです。

でも「子供はわんぱくで走り回るのは当たり前」だと思っている人にとっては、子供が走り回っても怒ることはありません。

 

ルールか信念か、どちらにベクトルが向いているかで子供に対する対応も変わります。

 

飛行機で赤ちゃんが泣いていると、日本人の大人は睨んだり、ぶつぶつ文句を言ったり、舌打ちをしたりすることがあります。かつての自分もそうでした。

でもカナダに限らず海外の人たちは、赤ちゃんに寛容です。

日本人は「乗り物は静かにすべき」というルールにベクトルが向いているので、赤ちゃんですら、うるさくしているとイライラしてしまうのです。「乗り物は静かに乗ること」が当たり前になっているからです。

「赤ちゃんだから泣いて当たり前」と思っていれば、飛行機だろうが電車だろうがイライラすることはないはずです。

 

ルールだらけの日本

 

自己肯定感が低いのは否定されるから、否定されるのはルールがあるからと説明しました。

 

つまりルールが多ければ多いほど、否定される確率も上がるということです。

 

ルールは常識を作り、常識は観念を作ります。

 

例えば日本では就活生はスーツを着ることが常識になってますよね。それはなぜかといえば、会社ではスーツを着用しなければならないというルールがある(最近は減ってきましたが)からです。

そしてその常識が「スーツを着るべき」という観念を生みます。

したがってスーツを着ていない就活生は非常識だという否定を受けることになります。

 

僕たちは子供の頃から当たり前のようにルールを守ることを経験させられます。

例えば「校則」です。

靴下の色から、前髪の長さまで細かく指定されています。

子供のころからそういうルールを経験しているから、それが当たり前で大人になっても誰も疑問に感じることのないまま、ルールに縛られ「否定」を受け続けることになってしまうのです。

 

本当に意味のあるルールなのか

 

ルールはある程度の秩序を守るために必要です。でも必要以上に自由を奪いすぎてしまうルールは幸福感も同時に奪ってしまいます。

 

上記の例で再度考えてみます。

 

なぜ就活生は「スーツを着ないとダメ」なのでしょうか?

それは「先方に失礼だから」です。

ではなぜ「先方に失礼」なのでしょうか?

それは「スーツを着るべき」だからです。

ではなぜ「スーツを着るべき」なのでしょうか?

それは「常識」だからです。

なぜそれが常識なのでしょうか?

それは「ルール」だからです。

 

服装というものはその人の個性を表現するものでもあります。外見によってその人がどういう人物かも判断できる材料になります。だから、服装を見ればその人の個性がわかるので、人材を選ぶときにも一つの判断材料になるという考え方もできるはずです。

革新的な人物を探している会社があった場合、リクルートスーツを来た学生の中に一人だけカジュアルな格好の学生がいたら、採用するかどうかは別にしても、この学生は個性的だなという印象は受けるはずです。

 

そのルールにどこまで意味があるのか真剣に検討されることのないまま「ただなんとなく」ルールになっているものもあります。

上述した学校の校則も前髪が校則より1センチ長かったら怒られますが、その1センチになにか意味があるのかと言われれば、特に意味はなく「ただなんとなく」前髪の長さが決められています。

 

僕は日本でツアーコンダクターとして働いていた時に茶髪だった時期があります。

ある時先輩に「髪の毛黒くしろ」と注意をされました。その時の僕は「あそこの女性たちも茶髪ですけど、あの人たちには注意しないんですか?」と聞きました。

すると先輩は「女性はいいんだ」と返答をしたのです。

 

そして僕はこう言いました。

「僕は表情が暗いので明るい印象を与えるために髪の毛を染めています。実際これでクレーム(添乗員はアンケートがある)をもらったことは一度もありません。髪の毛の色に性別は関係ないですよね?男性がダメで女性がOKな理由を説明してください。それが納得いく理由なら僕は髪の毛を黒くします。」

結局先輩は何も言えませんでした。

 

実際会社の規定でも「女性は(ちょっとだけなら)茶髪OKで、男性は黒髪のみ」みたいな社則がある会社もあります。でもなぜ性別によって髪の色の許容範囲が違うのか明確に説明している会社はないと思います。

 

ちなみにカナダの幼稚園(義務教育)に通う息子の同級生は紫色に髪を染めてます。もちろん、そのことを注意されたりしていません。髪の毛の色を制限する必要性もないからです。

 

僕もこちらの大型スーパーで裏方の仕事(お客さんと接触する機会がない)をしていた時、片耳にイヤホンをつけてセミナー音声を聞きながら仕事をしていましたが、誰からも注意されることはありませんでした。片耳さえ開けていれば指示は聞こえるから、仕事に支障をきたすこともないからです。

要するに本当に必要なことだけがルールになっていて、それ以外のことには大してこだわっていないということです。

その結果、否定も生まれにくく自己肯定感が下がりにくい環境ができています。

 

 

昔はそうだったから

 

多分茶髪がダメだったり、学校の靴下が白しかダメな理由というのも「昔はそうだったから」というのが一番の理由だと思います。今でこそようやく市民権が得られつつありますが、昔は茶髪はヤンキーの象徴でしたからね。

形骸化して実質あまり意味のないルールがある理由はほとんどがこの「昔はそうだったから」だと思います。

 

時代に合わせてルールも変えていかないと、どんどん世界から取り残されていくことになります。

インターネットがなくて景気が良かったころは、ある程度の給料をもらえて終身雇用されるサラリーマンになることが正解というのが暗黙の了解でした。

でも景気が悪くなって、給料も減り、終身雇用も危うい時代では必ずしもサラリーマンになることが正解とは言えないと思います。

 

サラリーマンになるとある程度生涯賃金が決まってしまいます。それなら大きく稼げて不労収入を確保できるユーチューバーになることが正解であると考える人もいるはずです。

多くの大人は子供が「ユーチューバーになりたい」と言ったら、全力で否定すると思います。ちょっと前の僕もそうでした。

でも経済自由人から自分のコンテンツ(資産)を持つことと不労所得の重要性を聞いてからは、考え方が変わりむしろユーチューバーのほうがいいのではないか、とすら思うようになりました。

 

ではなぜ大人は否定するのか?それは自分が経験したことない(=知らない)からです。芸能人やスポーツ選手になりたいという子供の夢を否定するのも同じ理由です。

 

「自分たちの頃はこうだったからこうしなさい」ということを次の世代に押し付けた結果、「昔はそうだったから」という理由で存在意義のよくわからないルールが残ることになったのだと思います。

 

団体主義とルールに管理される弊害

中学校の修学旅行のしおりを思い出してください。時間が細かく区切られ、「ご飯を食べるときはいただきましょうを言いましょう」という細かい指示まで書いてありますね。

 

もちろんきっちりとルールを決めて、管理をすることは素晴らしいことです。

ルールがあれば秩序が保てる。秩序が保てれば他人に迷惑をかけなくなる。

個人よりも社会に重点をおく日本の団体主義ゆえの考え方だと思います。

もちろんそれも一つのあり方ですので、それを否定するつもりはありません。

 

修学旅行のしおりだったり、就活生がリクルートスーツを着ることだったり、のように世の中がルールだらけの環境になった時、人はどうなると思いますか?

 

思考しなくなるんです。

 

リクルートスーツを着る意味を考えなくなります。なぜなら「そういうもの」だから。

ではなぜそういうものなのかと言われれば、「みんなそうしているから」です。

リクルートスーツは単なる一例です。ルールがあるものすべてにおいて思考をしなくなってしまいます。

子供の頃からルールで縛られ、他の人と足並みを揃えることを強要されているうちに、なんとなく大学に行き、なんとなく会社に就職して、自分がやりたいことがわからなくなってしまいます。

 

話を戻して、「みんなそうしている」理由は「日本ではそれが当たり前だから」です。

でも「日本では当たり前でも世界では当たり前じゃないこと」はたくさんあります。

「みんなそうしているから」という理屈で考えるならば、日本よりも世界の人口のほうが多いから、そちらに合わせるべきでは、と考えることはできないでしょうか?

「日本ではそれが当たり前だから(正解である)」と考えるのは日本しか知らないからです。

 

だから自分のような立場の人間が発信をすることにも意味があると思っています。

 

結局何を伝えたいのか

 

なぜ僕が反感を買うことを覚悟してまで、ここまでルールのことをとやかく言うのか。

それは冒頭にお話しした「NO」つまり否定につながるからです。

 

自己肯定感が人生にとっていかに重要なものであるかはご理解いただけると思います。

だから子供たちの自己肯定を下げるような要因はできる限り減らしてあげるべきだと思うのです。

 

彼らは僕たち世代の借金を背負って生きていくことになります。彼らが大人になるころにはお金という概念もどうなっているかわかりません。

その時に本当に必要とされるのは、心の安息、つまり幸せを感じる心であると思うのです。

自分を否定していては幸せを感じることはできません。

だから子供たちの自己肯定感を下げないように、僕たち親が気を付けないといけないと思うのです。

 

日本みたいにルールがたくさん存在しなくても発展している国はたくさんあります。日本人よりも幸福感の高い人達は世界中にたくさんいます。

だから必ずしもルールで縛ることだけが社会の発展や個人の幸せにつながるわけではないのです。

 

子供を叱りそうになった時、それは本当に叱るべきことなのかを考えないといけないと思います。

それで子供の将来が大きく変わってしまいますから。

 

今日は以上です。

 

いつもブログを読んでくださりありがとうございます。