僕たち人間は全員生まれたばかりの頃は、一滴の濁りもないピュアな存在でした。
しかし、年をとるにつれて正義の道を突き進む人と、悪の道へ進む人に分かれていきます。
その分かれ道を決定づけるものはいったい何でしょうか?
僕たちは全員同じ地点からスタートしたはずなのに、
ピュアな心のまま大人になる人もいれば、
心が汚れてしまう大人もいるのはなぜでしょうか?
※上記で「悪の道」と表現していますが、
常識的に言う「悪」という概念を指しているだけであって、
正確には「悪」ではなく、「もう一つの正義」と表現するのが正しいです。
正義と悪の分かれ道を決定づけるもの
生まれたばかりの赤ちゃんが、
成長するにつれて徐々に心が歪み悪の道へ進んでいくとしたら、
その原因は何だと思いますか?
一番最初に思い浮かぶのは「環境」だと思います。
確かに環境の及ぼす影響は大きいです。
否定的な言葉をかけ続けられた子供は、
そうでない子供に比べて圧倒的に不良になる割合が大きいです。
そこから立ち直る人もいますが、
自分を否定し、自分の境遇を他人や環境のせいにしてそのまま転落していく人もいます。
大人になってからもそうですね。
会社で上司に否定的な言葉ばかり浴びせられていたら、
徐々に心がすさんでいきます。
純粋な人ほど傷つきやすく染まりやすい傾向があるので、
子供の頃はピュアだったのに、大人になってから急に汚れてしまう人も少なくありません。
しかし、一方でそのような環境にいても心が汚れることもなく、
正義の道を突き進む人もいます。
つまり、「正義と悪の分かれ道を決定づけるのは、必ずしも環境だけが影響しているわけではない」ということです。
その分かれ道を決定づけるもの、それは「理解者の存在」です。
どんなにひどい仕打ちを受けても、
どんなに否定的な言葉を浴びせられても、
自分を理解してくれる人がいれば、人は悪の道に進むことはありません。
「理解者」と表現しましたが、これは必ずしも他人であるとは限りません。
内面の自分も理解者の一人です。
僕たちは他人から否定的な言葉を浴びせられた時、
自分を責めたり、自己嫌悪に陥ったりしています。
本来(内面の)自分というのは自分の味方であるべき存在のはずです。
にもかかわらず、味方であるはずの存在が自分自身をさらに否定し、追い込んでしまっています。
例えば、あなたが子供で友達に一方的に嫌がらせをされたとします。
家に帰って両親にそのことを話したのですが、
「それはあなたが悪い」と言って理解してもらえませんでした。
その時あなたはどう感じますか?
自分の味方をしてくれると思っていた存在に否定され、
絶望感を感じるのではないでしょうか?
これと同じことを、僕たちは日常的に自分自身にしているということです。
分離が進んだ現代社会 「コミュニティの崩壊」
人間とは他の動物と違い、一人では生きていくことのできない存在です。
自分ひとりで生きていくことを想像してみてください。
自分で家を建てて、自分で食料を育てて、、、
ちょっと無理ですよね。
人間は昔からお互いに助け合って生きてきました。
文明が発達していない時代は、自分の周囲の人間と協力して生き抜いてきました。
人々は村などの何かしらのコミュニティに属し、
お互いに足りていない部分を補い合って生活するのが当たり前でした。
その時代は「コミュニティ=自分」であったわけです。
なぜなら、コミュニティがなければ自分が生きていくことはできないからです。
コミュニティのメンバーが何か問題で苦しんでいれば、
自分事のように考え、その人のために行動していたはずです。
それは「他人の気持ちを思いやり、その人のことを理解していた」と表現することができるでしょう。
コミュニティに属さなくても生きていくことができるようになりました。
厳密に言うと、物理的に何かしらのコミュニティに属していることにはなりますが、
そこに心のつながりはなく、お互いに助け合って生きていた時代のコミュニティとはニュアンスがまったく別のものになります。
極端な話、パソコンとインターネットさえあれば、
自宅から一歩も外にでなくても生きていくことができます。
僕たちが子供の頃にもテレビゲームはありましたが、
友達と外で遊ぶ機会は多かったです。
現在ではインターネットやスマホの普及により、
自宅で一人で遊ぶ子供の割合も以前に比べると格段に多くなりました。
そして、テレビゲームなどの影響で家族とのコミュニケーションもますます希薄になっています。
つまり、コミュニティの最小単位と呼べる家族すらも、
もはやコミュニティとして機能しなくなってきているということです。
理解者の不在が生んだ歪み
欧米諸国も日本と同じ水準の文明を持っています。
でも、欧米諸国は日本のような否定文化ではありません。
基本的には相手を尊重し、良いところを褒めて伸ばすという文化が根底にあります。
否定をされることがそもそも少ないから、
心がすさんでいくこともないのです。
日本はとにかく否定することが大好きな国民性です。
昔はそれでも自分のことを理解してくれる人がいたから、
それでもやってこれたのだと思います。
しかし、他人との直接の関わり合いが少なくなった現代の日本では、
否定文化は従来のままなのに、理解者がいなくなってしまったために心に闇を抱える人が急増しました。
たとえ理解者がいなかったとしても、
自分自身が自分の理解者になれた人は、
そういった状況でも心に闇を抱えることなく生きています。
しかし、多くの人は他者から受けた否定に同調し、
自分をさらに否定して追い込んでいきます。
分離が進むとどうなるか?
以前に抽象化という概念についてお話ししました。
分離が進むとどんどん抽象化思考ができなくなっていきます。
自分をどんどん抽象化していくと、「地球人」になります。
地球人として皆で助け合って生きていけばいいのに、
国籍という区分を作って分離させたために、人種や国籍による差別や差別的思考がうまれることになってしまいました。
日本人にも多いですが、「○○人は○○である」みたいな決めつけで発言をする人がいますよね。
あれは完全に自分と相手を分離させているからこそ生まれる発言です。
自分を抽象化し、自分たちは同じ「人間」という存在であるという意識があればそのような発言は生まれないはずです。
この抽象化思考をどんどん分離させていった最小単位が個人です。
コミュニティが崩壊した現代社会では、この「個人」という思考レベルで生きている人がほとんどです。
人それぞれ自分の正義を持っています。
そして誰しも自分こそが正しいと思っています。
人間という存在が分離して個人になってしまったがために、
相手の気持ちを理解せず、自分の正義を押し付けて「自分こそ正しい」と他者を批判sる人が増えてしまいました。
ネット上でよく見かけますが、
「○○というお笑い芸人が面白いか面白くないか」について不毛な議論をしている人がいます。
それぞれが自分の正義を主張して相手を納得させようとしますが、
そもそも感性なんて人それぞれ違うのだから、
そういう議論をすること自体がナンセンスなわけです。
「私は○○を面白いと思うけど、あなたは面白いと思わないんだ。へー。」
これが相手を理解することです(共感ではない)。
しかし、完全に他者と分離してしまっている人達は、
「○○が面白くなんて信じられない。お前は○○だ」
といつの間にか、相手の人格否定に議論を発展させてしまいます。
これは、自分の価値観を相手に強要することにより摩擦が生まれ、
ヒートアップして誹謗中傷に走ってしまうためです。
これからは融合へ向かう時代
今は分離から融合の時代へ向かう過渡期です。
コミュニティが崩壊し、理解者が不在になった現代人の心は、
他者とのつながりを強く求めるようになりました。
宇宙の存在はすべてバランスをとっていると何度かお話しましたが、
バラバラになった現代社会は、これからそのバランスをとるために融合へと向かっていくことでしょう。
国際化社会、AIの台頭などは人々に心のつながりをもたらす象徴ではないかと考えています。
否定的な文化を変えていくことも大切ですが、
まずは他者を理解してあげることが日本人にとってもっとも重要です。
「理解」は人ひとりの人生を救うことのできるぐらい強力な力を持っています。
まずはあなたの大切な人を理解するところから始めてみてください。
最後まで読んでいただきありがとうございます。