人間は出来事に反応して生きています。
そしてその反応は自分自身で選択することができます。
例えば何かにイライラしているとき、
その出来事に原因があるのではなく、
「イライラする」という選択を自分で選んだだけです。
「イライラしない」という選択だってできたわけです。
多くの人は出来事に反射的に反応しているので、
「すべての原因が自分にある」という自覚がありません。
だからこそ、自分で人生をコントロールするのではなく、
外部要因に人生をコントロールされてしまうのです。
人間の生きる指針になっているもの
人間の生きる指針となっているものは「観念」や「信念」です。
人は観念や信念に基づいて生きているわけです。
「お金を稼ぐのは悪いこと」という観念を持っている人もいれば、
「お金を稼ぐのは良いこと」という観念を持っている人もいます。
どういう観念を持っているかによって反応が変わります。
人生は自分の思った通りになるので、
自分の持っている観念によって人生が決まってしまうわけです。
観念によって正義が生まれる
観念によって正義が生まれ、正義によってジャッジが生まれます。
「○○すべき」という観念を持っている人は、
○○しない(できない)人に怒りを感じます。
その理由は自分の正義に反するからです。
許すことができない人は人生に軽やかさがなくなり、
どんどん苦しくなっていきます。
許すか許さないかというジャッジの基準は、
観念によって作り上げられた正義です。
その正義によって自らの人生を苦しくしてしまっているのです。
正しさを軸に生きると苦しくなる
僕たちは「正しく生きることは素晴らしいこと」という教育を受けて育つので、
正しさを軸にして物事を判断することが多いです。
昔の僕は理不尽なことが許せない人間でしたが、
その根底にあるのは「自分は間違っていない」という思考です。
その思いがあるからこそ理不尽な目に遭うたびに腹を立てて、
嫌な気分になることが多かったわけです。
もう少し柔軟に、「正しさ」を捨てて生きることができれば、
そんなことにいちいち腹を立てることもなかったはずです。
当時の僕は「正しく生きることこそ正しい」と思っていたわけですが、
そもそも何が正しいかなんて人によって違うわけです。
戦争をしている国では人を殺めることが正義とされていることもあります。
正義なんてただの幻想だし、
その正義も他人の影響によって作られたものです。
つまり、正しさを軸に生きるということは、
他人軸で生きているということです。
よく考えてみてほしいのですが、
あなたが「○○すべき」と思っていることは、
自分が本当にやりたいことではなく、
社会の秩序を保つために都合のいい観念ではありませんか?
自分軸で生きるためには「正しさ」ではなく
「楽しさ」を基準に生きる必要があります。
楽しさには正しいも間違っているもありません。
だから他人を裁くこともなくなるし、
人生に柔軟性が生まれとても軽やかに生きる事ができます。
楽しさは自分の内側から生まれる感情です。
他人によって作られるものではありません。
つまり、楽しさは100%自分基準=自分軸ということです。
正しさは時にブレーキとなる
今の話を聞いて、「正しさよりも楽しさを優先するなんて良くない」と思ったとしたら、それがあなたの観念であるということを意味しています。
その場合、楽しさを基準に生きる自分に罪悪感を感じることになります。
正しさよりも楽しさを優先することにブレーキを感じ、
そういう自分になろうとすることを許可しません。
「お金は苦労して稼ぐもの」という観念を持っている人は、
「お金は楽しく稼ぐもの」と考えている人のことを許せないし、
自分がそうなろうとすることも許しません。
でも別にお金を楽しく稼いだっていいわけです。
うまくいかない人は決して能力が低いというわけではなく、
「正しさ」のせいでブレーキを踏んでいることが原因である場合もあります。
ブレーキを踏むと行動できなくなるし、
行動できなければ何も結果は変わりません。
何が正解であるかなんて答えは存在しないのだから、
正しさという幻想に縛られるのではなく、
自分の生きたいように生きればいいと思うのです。
まとめ
「正しく生きる事が自分を苦しめている」なんて、
にわかには信じがたいですよね。
「正しく生きる事こそ素晴らしい」と教えられ、
正しさに美徳を感じて生きてきたならなおさらです。
そもそも正しさの答えなど存在しないのだから、
そんなものは捨ててもっと楽に生きればいいんです。
最後まで読んでいただきありがとうございます。